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HTML殺人事件
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今日は、サエジマさんには別の予定があるそうで、渋谷駅前には奥さんのユカリさんが来ることになっていた。
風は弱いが朝の冷え込みは厳しかったので、ハチ公前で待っていたルネに、ユカリさんは「別の場所で待ち合わせればよかったね」と声をかけたが、ルネは別に寒さが気になってはいなかった。
冷気は街に重く垂れ込めているが、それと同化することをイメージすると、ルネは意識が身体の表層から外界に広がっていくような感覚に満たされる。そして、寒さはただ客観的に、そこに存在するだけのものになり、じぶんにとって何の苦痛でもなくなる。
クライアントの雑貨ショップでは、先方との話をほとんどユカリさんが受け持ってくれたので、ルネは、ただ聞いていればよかった。
もともと難しい話ではなかったので、打ち合わせは1時間弱で終わる。ユカリさんは「食事でもしたいけど、娘が風邪気味だから」と資料を入れてあったA4サイズの紙袋から何かを取り出した。
「貰い物なんだけど…。中のレストランで食事もできるわ」
そう言って、デパートの商品券が入った封筒をルネに渡す。
ユカリさんが手を振って東急の駅に消えていくのをルネは見送った。
晴れた日だったので、昼近くなると寒さは感じない。ルネは少し歩いてみたい気分になった。スクランブル交差点の歩行者用信号が点滅し始めたので、小走りで横断歩道を渡った。
センター街を歩いて行く。行き交う人間たちの中のかなりの数は、どこか、もの欲しげだった。その時、ルネには人々がもの欲しげで街をさまよったり、立ち止まって人の流れを見ていたりするように見えた。
僅かなきっかけさえあれば誰かに話しかけたい、話しかけて欲しい。彼らは、その微妙なタイミング測って身構えているように見える。でも、それがダイレクトに現れることはない。ネガティブな均衡が街を浸しているが、ひとりひとりはチャンスが来たら、堰を切ったように喋り始めるかもしれない。僅かでも隙を見せた人間を見つければ、溜まっていた性衝動から一気に射精する男のように。
人ごみは鬱屈として濁った電磁波を発している。
公園通りへ抜けて渋谷区役所の辺りに来ると、人が少なくなって、落ち着いた気分になる。
さっきまでのことは、自分が妄想的に、そう感じていただけかもしれない、とルネは思った。そして、たいしたものではないのだが、ビジネスがらみの慣れない、どちらかと言えば苦手な場所にいたので精神の均衡が崩れたのかもしれないと考えたりもした。
しばらく歩くと明治神宮前駅への入り口があったので階段を降りた。
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地下鉄の窓の外は、ただ内壁の照明が後方へ規則的に走り過ぎて行くだけだ。でもルネは、それをぼんやりと見ているのが嫌いではない。
会社の同僚らしいスーツ姿の男たち。幼い姉妹を連れた若い母親。着古したジャンパーの老人。
駅でドアが開くたび、乗客はひとりで、あるいは連れ立って、それぞれの物語の中で、この車両に乗り込んで来る。その物語は他の乗客とはほとんど交差することがなく、彼らはまた、どこかの駅で降りて行く。
ルネは、シートが適当に間隔を置いて座れる状態で、しかも端が空いている時でなければ座らない。たいていは、ドアの脇に立っている。
「これからは、俺のことを詩人って呼んでくれよ」
地下鉄の車内は普通の電車より騒音が大きいが、その声は、それに掻き消されることなくルネの耳に届いている。
「何でおまえが詩人なんだよ。詩なんてどこに書いてんだ」
ルネとは反対側のドアの前に数人のグループがいた。何だかコンビニの前に座り込んでいる連中と同じような波長を感じる。
「インターネットだよ。俺は、何を隠そうネット詩人」
自称詩人は、ちょっと胸を反らして応える。セットが乱れている茶髪。小柄で猫背の、ちょっと猿系の顔だ。
「ネット詩人なんてのもあったのかよう」
ヒップホップふうにジャージを着た、大柄の男が笑って彼の肩を叩く。
一同は声を上げて笑った。
「ネット作家なら、本が出て売れてる人なんかもいるみたいだけどねえ。田口ランディーとかさ」
ゴスロリっぽいファッションの髪の長い女の子がシニカルに言う。
「おまえらは知らないだろうけどな。俺はネット詩人としては、ちょっとしたもんなんだぜ」
彼は喋りながらルネの方をちらちらと見た。でも、ルネは彼に視線を向けていたわけではないし、彼と面識があるわけでもない。
「ちょっと某サイトに投稿するとな、そりゃもう絶賛の嵐」
「ヒロは絶賛の嵐よりは、荒らしだろ?エロい書き込みとか常習の」
彼を揶揄したオレンジのソバージュは引き攣ったように腹を抱えている。
どこに投稿しているのだろう?もしかしてPoemVillageだろうか。そうだとすると、ルネが知っている常連の中の誰かかもしれないが、でも、想像がつかない。
赤坂で“詩人”と仲間は降りて行き、入れ違いに初老の女が入って来た。イトーヨーカドー辺りで買ったような冴えないハーフコートを着ている。
「この電車は北千住に行きますか?」
入って来たすぐ脇の、シートの端にいた高校生らしい女の子の二人連れに尋ねた。たしか、入り口の横に北千住行きの表示があったはずだが確認しなかったのだろうか。
初老の女は二人連れの向こう側の空いていた席に合皮の手提げを抱えて座ると、女の子たちに話しかける。茶髪やピアスを親や先生が咎めないのかというようなつまらない話だ。
二人連れは、あまり歓迎しない様子だが、自分たちの世代では、もうあたりまえのことだと答える。初老の女は、それに耳を傾ける気はないらしくて、自分が若い頃の話を始める。
Still, a man hears what he wants to hear
And disregards the rest
でも、人は聞きたいことだけに耳を貸して
そうでないのは無視するものだけどね
こんなフレーズが、ふとルネの頭の中に流れてくる。男性二人のハーモニーとスリーフィンガーのギターに乗って。
Simon & Gurfunkleのの「The Boxer」という曲の中の一節だ。
海外へ放浪の旅に出たというルネの父が残していったアナログ盤の1枚に入っていたが、プレーヤーが壊れたので、もう長いこと聴いていない。
そういえば、こんな言葉もあった。
人間はつねに、自分に理解できない事柄はなんでも否定したがるものである。
パスカルの『小品集-幾何学的精神について』の中の一節だ。ポール・サイモンは、これを読んでいたのだろうか?
パスカルといえば有名な『パンセ』の中の<人間は考える葦である>だなと思い、ルネの脳裏にHP小僧の編集システムに侵入して見た『人間は表現する葦である』というページと、そこにあった詩のことが甦る。
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