HTML殺人事件

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 突然、映画の中のある場面に投げ込まれ登場人物になったかのようだった。麻酔性のある気体に似たものに自分は浸されている。そして、ルネはその中空を浮遊するような感覚がしばらく続いていることに、今しがた、まったく突然に気づいたのだった。

 その登場人物は、どこか外国の空港に降り立ってまだ間もない。そして、その国のとある川にかかる橋上の歩道を歩いている。そこは彼の祖国よりずっと暖かい土地だから、微風がやわらかく優しく、身体を包むように流れていた。それまでずっと暮らしていた吝嗇で陰鬱な国と違って空が光を出し惜しみしていない。ルネは周囲の明るさが増して、華やかに感じられる世界の中にいた。
 頬や額の皮膚が強まった午後の日差しを感じているが、それは触感にかなり近い。

 昨日まで、いや、今朝まで世界は冬の帳の中にあって、すべては冷えきっていた。それは自分が生まれてからずっと、いや、たぶん、すべての始まりからそうだったのだろう。その状態が永遠に続くことに誰も何の疑いももたず、変化が起きる僅かな兆しさえ、世界のどこにも見当たらなかった。

 でも今、ルネは自分が春の中に投げ出されていることに気づいたのだ。それは突然だった。と言っても、それまで何かルネを悩ませていたものが存在して、それが晴れることで世界が眩しく感じられるようになったわけではない。変化はまったく無作為に、突然起きたのだった。


 4号線を車が行き交っている。東北方向だと埼玉を抜けて日光へ向かう道だ。ルネは千住新橋の歩道を中ほどまで歩いたところでもと来た方に引き返した。荒川にかかる橋で、北千住のはずれにあたる。
 かなりの人とすれ違う。もう放課後の時間だから子供たちも多かった。暖かい空気の中で、人々は集団で躁状態に陥ってでもいるような不自然に浮かれた表情をしているように見えた。
ある意味、世界は祭の中にあるといってもよかったが、ふつうその裏に見え隠れするいかがわしさはなかった。ただ、影をもたない不気味さが、あたりに満ちていたかもしれない。

 堤防にまわると数メートル先の道端に吸血鬼の屋敷のメイドのような黒と白2色だけのコスチュームの少女が座り込んでい。たそこは草いきれのするような場所で、ゴスロリはなんだか場違いだったが、もっとも、そんな格好は世界のどこだろうと多くの人の目には異様に映ると言えるだろう。歩いていくルネに、その少女はずっと視線を向けて逸らさない。ルネは少女の前で立ち止まった。

「ルネさん?」
 少女は視線を無表情のまま尋ねる。でも、彼のかすかな表情の変化も見逃すまいと細かく観察しているようでもあった。
 白っぽいメイクが晴れた空と陽光に似合わない。彼女は世界のそこにだけ開けられた暗い穴のように見える。

 ルネが頷いたのを見て、彼女はキューが振られるのを待っていたアナウンサーのように口を開いた。あらかじめ頭に入れてあった原稿を読むように、抑揚の少ない喋りだった。
「あたし、ネットではトリルってHNを使ってます。本名は明日香っていうんだけど」
 風が肩先で軽くカールしている髪を揺らした。ナイロンでできた人形の髪のように見える金色だ。左手首に黄緑色の包帯を巻いている。HPのプロフにはリストカッターであると書かれていたが、実際に切ったからなのか、それともファッションでやっているのかはわからない。

「あ、何というか、まあ、はじめまして」
 例えば初めて会ったのに懐かしさを感じるとか頭や胸の中で特殊な振動が起きるとか、別にそういうことはなかった。そういうコスチュームは街でも雑誌の中でもネット上でも時折見かけるし、二言三言なら彼女たちと言葉を交わすこともある。ルネはただ風景から切り取ったものと対峙しているだけだ。

「どうしますか。どこかでお茶する?でも、天気がいいから、とりあえず向こうの方に歩いてみますか?」
 トリルは立ち上がり、ルネの横に並んで一緒に歩き始めた。何だか手でも繋ぎそうな雰囲気だった。ルネがそうすれば、彼女は拒まなかったかもしれない。

「やっと会えたわ」  どこかで聞いたような台詞だった。たしか、元ミュージシャンの作家がパリの空港で女優に初めて会った時に言った言葉が「やっと会えたね」で、二人はその後結婚している。

「もう何回メールしたかしら?」
 トリルの話し声のトーンが微妙に変化して聞こえた。それは自分の意識の内部に潜り込もうとしているように感じられ、でも、しばらく間を置くうちに浸入して来た何かは薄れて消滅する。それを確認してからルネは口を開いた。 「たしか6回」
「そのくらいだったかな?でも、とにかく会いに来てくれたんだから…。やっぱ、ネットより、こうやって実際に顔と顔を合わさなくっちゃ。ちょっと気が合った人とはそうするでしょ?」
 ルネは、ネットの付き合いはそれだけにしていて、オフで会うことはほとんどなかったが、あえて、それをトリルに話すことはしなかった。
「なんだ、何回だったか自分で覚えてなかったの?」
「私んとこへはスパムは別にして一日に100くらいはメールが来るからね。それにレスして、それから私も出すのがあるから、自分ではもっと書いてるわけか…。何がなんだかわからなくなるわ。ルネさんは記憶力がいいんだね。そういえば、頭のよさそうな顔してるわ。」

 ―頭のよさそうな顔してるわ。―

 なんだか違和感のある言葉だった。それは成績が悪くて友達もいない子供や自分の都合よく単純化した世界に住んでいる中年女や脳の処理機能が衰退した老人といった無知でデリカシーのない人間たちの領域に存在するもので、その響きがルネの内部で減衰していく間、彼は不味い食べ物を反芻しているような気分になる。

「最初にメールくれたのは2月だったっけ?」
 河川敷には運動場があって、堤防側に舗装された道がある。千住新橋の向こう側でも上流の方へ伸びていたはずだ。どこまで行くんだろう。かなり上流まで続いているのなら自転車で走るのもいいなとルネは思った。
「2月の終わりか、3月の初めだったと思った。それから6回ね。こんなこと珍しいわ」
 河川敷を眺めるのにも飽きると、時折風が通り過ぎる度にトリルの服の黒いフリルが揺れるのに目を移す。
「なるほど」と、ルネは無意識に呟いていた。
「え、何?」
「ううん、もう、すっかり春になってるわけだってこと。」
「そう言えば、今日、急に暖かくなったんだよね。出てくる時、着るものに迷ったよ。随分時間が経ってるわけだけど、まあ、あなたはちょっと違ったってことね」
 トリルは話を続けた。まるで、ルネに何かを伝えなければならない任務を遂行しているかのようだったが、それはトリルの無意識に中に存在するものなのかもしれなかった。

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