HTML殺人事件

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 このあたりには高層の建築物はほとんどない。ずっと西の方には池袋や新宿のビル群が見渡せる。かろうじて30階程度のマンションらしい数棟の建物が右斜め方向に建っていた。
「あそこに尾崎豊が住んでたんだよ」
 トリルが指差したのは、その建物だった。ちょっと前なら“近未来的”などと表現されただろう悪くないデザインだ。
 尾崎豊は死の少し前に北千住のどこかに倒れていたのだが、その近くの家が“尾崎ハウス”と呼ばれてファンのたまり場になっていることならルネも知っていた。でも、彼が子供時代を過ごした実家はたしか埼玉県朝霞市だったはずだ。朝霞市は東武線でも池袋から出ている東上線の沿線で、この辺りを走っているのは東武伊勢崎線だ。
「奥さんは足立区の人だからね。西新井って、東武線で四つ目のとこだけど」
 ルネの疑問を察知したかのようにトリルが半ば独り言で呟いた。

 トリルは次の階段がある場所に来ると川とは反対側に降りた。人影がほとんどなく、たまに車が通るだけの道を所々で曲がりながら歩いて行く。
 宅地いっぱいに家が建てられている場合が多く、建物と建物の感覚は数メートルもない。庭というより緩衝地帯のスペースに草花の入ったポットが並べられているのがルネには人々がかろうじて持っている自負を象徴しているかのように見えた。

 とある横道を入ると、車は入れないほどの通りの両側に商店が建ち並んでいて、買い物客でごった返している。
 スーパーなどと違って、店頭には干物や惣菜が剥き出しのまま置かれていた。その先には短いアーケードがあったが、そのあたりは薄暗くて湿った感じがする。どこか影が薄く生命力が乏しい感じのする店の女主人と、肌目のコントラストが強い顔の客らしい中年女は、ルネたちが通り過ぎた時、知り合いの誰かの噂話をしているようだった。
 あちこちで立ち話をしているのは地域内での顔見知りが多いからだろうか。それぞれの内容に聞き耳を立てたわけではないが、そこではあらかじめ設定された共同の物語をなぞるような予定調和の会話を交わすことが義務付けられ、誰もがけっしてそれを逸脱することはないようにルネには思われた。

 商店街を抜けるとまた以前と同じような街並みが続く。所々にアパートと思われる2・3階建てと駐車場があった。人々の定型化された毎日が発する澱んだ気体があたりに沈殿しているかのようだ。トリルがさっき言っていたように、この町は世界から少しづつ押し出された人々を招いている蟻地獄のようなものかもしれないとルネは思った。

 トリルにはどこか目的の場所があって、そこに向かっているのかどうか、ルネにはわからないし尋ねることもしなかった。
 ふと気がつくと尾崎豊のマンションが斜め前に見え、かなり近い。そこからも狭い道の角をいくつか曲がった。
、比較的車の多い通りに出て少し歩くと『京成関屋』という駅の前に来ていた。小さな駅なので外から改札が見える。その近くにももうひとつ駅があるようで、少し歩くと線路が見え電車が左方向に走り出て行った。さっき河原で見た東武線のようだった。

 突然、ルネの頭の中に衝撃が走った。でも、それは殴られるといったような物理的な打撃を受けたのではなくて、突発した出来事のためだ。それまでは緩慢に流れていた時間が急に奔流に変化したように感じるが、それは血液の流れだったのかもしれない。

 咄嗟のことで、それが何なのかルネにはすぐに掴めなかったが、とにかくそこに突然現れたのは黒い影のような濃密さをもった気配で、犬小屋や動物園の檻によくあるような臭気を伴っている。
 黒い影は後方からいきなりトリルに飛びかかった。小さな驚きの声を上げ、バランスを崩したトリルは影と折り重なって路面に倒れる。その時になって、ルネはトリルに抱きついているのが頭頂部の薄くなった中年男だとわかった。
 男は笑い声とも動物の鳴き声ともつかないものを断続的に発している。

 そんなに人通りは多くなかったが、たまたま通りかかった老女が危険を避けようと思ってか十数メートル先まで逃げるように走り、立ち止まって様子を見ている。駅の入口には待ち合わせらしいスーツの男が携帯電話で何か話しながらこっちを見ていた。自転車で通りかかった作業服の中年男が、やはり少し離れた場所で停まってなりゆきを見守っている。

 そのうちルネは男のあげているのが笑い声だと気づいた。トリルも一緒に笑っているようだ。二人は笑いながら立ち上がった。男はトリルの手首を掴んで走り出す。東武線の駅の方向だった。怪訝な顔で見つめている人々の前を通る時に「何でもでもありません、何でもありません」と繰り返し、もう一方の手を横に振った。
「兄ちゃん、あんたもだよ。来るんだ」と早口でルネに指示する。
ルネも二人の後を追って走っていた。
 京成関屋のすぐ近くにあるが、こちらは『牛田』という駅名だ。切符の販売機の前で立ち止まろうとしたルネに、男は「大丈夫。切符はあるからよお」と手招きし、自動改札の端にある入口に向かった。「ちいーす」と窓口の駅員に声を掛けて通り過ぎる。駅員はただ無表情で何の反応もしなかった。

[To be continued]
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