HTML殺人事件

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 交差点を渡ると雷門方向の歩道はアーケードになっていて、その入口近くに『神谷バー』という店があった。ルネは雑誌の記事などで名前だけは知っている。トリルも初めてだというので入ってみることにした。
 古くからある店というイメージを強調しているのかレトロな雰囲気の内装だったが、それなら同じような店はよくあるので、とりたてて珍しいものでもなかった。椅子が十脚ほど並べられた大きなテーブルがいくつかあって、客は、そのどこかに席を取るようだった。それほど混んでいるわけではなかったが、まったく客のついていないテーブルはひとつしかなかったので、二人はそこに席を取った。
 とにかく有名なデンキブランというのを注文してみた。ちょっと薬草酒のような味だが実際、薬草も入っているらしい。結構美味しくて、それに1杯ではちょっと物足りない量だったので、二人ともお代わりを頼んだ。
 話し声を周囲に聞かれてしまうので辺り障りのない話題に限定せざるを得ない。ルネは萩原朔太郎がここで短歌を詠んだことや、作者の名前や題名は忘れたが小説の中に出てくることなど、うろ覚えの知識を話した。萩原朔太郎の名前は知っているが作品はというとタイトルも忘れている。トリルも同じらしかった。
「中原中也や宮沢賢治なら覚えてるのもあるんだけどね」

 デンキブランは少し甘味が強かったのでルネは2杯目までにして、次に生ビールを注文した。トリルも同じように感じているらしく、それに倣った。
 ルネたちはテーブルの門に当たるところで斜めに向かい合っていたが、中年夫婦はトリルの向かい側の長辺に並んで座った。
 彼らはしばらくルネたちの様子を窺いながらグラスやジョッキを口にしていたようだが、やがて、まず夫の方が「ここは初めて?」と話しかけてきた。
「ええ、まあ」とトリルが応え、取りとめもない話を始める。ルネはほとんど聞き役に回った。
 彼らはまるで、話をしないでいると衰弱して死んでしまう小動物で、そのため必死に喋っているように見えた。とは言ってもふたりともどちらかといえば大柄で、過剰な脂肪の付着を感じさせる体型だった。
 夫婦はふたりに黒ビールを奢ってくれ、「なんでも好きなものを頼んで食べてください」と言った。
 夫婦とトリルは楽しそうに喋り続けた。初めは萩原朔太郎の短歌のこととか、常連はデンキブランと生ビールを交互に飲むのだとか、その時の料理はにこごりが定番であるとかを夫婦がトリルに語ることが多かったが、そのうち北千住や金町や亀戸や小岩など下町の話になると、トリルも自分が生まれ育った地域なので積極的に喋って、かなり盛り上がっていた。
 トリルの話の中で、いつしかルネは大学のサークルの先輩ということになっていた。トリルは文学部で中原中也を勉強しているのだそうだ。トリルの口から、ふたりや周囲に関しての捏造された出来事が次々に紡ぎ出される。なかなか見事なもので、こういうのがネズミヤの言う“文才”だとしたら、もっともなことかもしれないなとルネは思った

 彼らが適当に口を合わせたり補足したりしている様子が、ルネには共同でひとつの物語を作り上げようとしている企てに見えた。

 4人は一緒に店を出て、中年夫婦はもう1軒行こうと誘ったが、トリルも疲れたようだし、ルネたちは帰ることにした。

 地下鉄に降りる階段の前で別れる。
 トリルが中年夫婦と話し込んでいたので、遅くなったわりにルネは思い通りの情報を得られなかったが、まあ仕方がない。とにかく意識の中に、重金属の沈殿物のようなものが溜まっていて、その重みで地底に沈んでいくような気分だ。


 部屋に帰ったルネは冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して、500mlの半分ほどを、ほとんど一気に飲んだ。
 それからPCを起動する。Googleで検索して、ネズミヤのところで覗いた『コノ セカイニ アイヲ』のページにもう一度アクセスした。
 その詩をずっと読み進んでいき、ある部分で目を停める。

 9連の1行目は“そして みんなが還っていきたがる場所”だが、“還”の字に“かえ”とルビが振ってある。“還って”を“かえって”と読むわけで、ソースでは“<ruby>還<rt>かえ</ruby>って”となっていた。
そして みんなが<ruby>還<rt>かえ</ruby>っていきたがる場所<br>
 この<ruby>のタグを使うと<ruby>と<rt>の間のテキストに対して<rt>と</ruby>の間のテキストでルビを振ることができる。そして、コピペした場合にはタグの部分が抜けたテキストそのままになる。
 これはIE対応なので、Netscapeでははたらかない。非対応ブラウザで表示させたいテキストは<rp>と</rp>の間に置くので、これを使えばIE以外ではルビの部分を“()”で括るといったような対応ができただろうが、ここでは行われていない
 ルネは確認のため“還って”の部分をドラッグし、Ctrl+Cを押さえてコピーした。メモ帳を開いてCtrl+Vで貼りつけてみる。メモ帳には“還かえって”という文字がペーストされた。

 次にPoem Villageで『コノ セカイニ アイヲ』が投稿されているページを開く。

 9連の1行目を確認してみると“そして みんなが還かえっていきたがる場所”だった。
 ぽえ村への投稿はrubyタグの入った文をコピペしたため“還”の後に“かえ”がある文になったと考えられる。そして、それには、同じ頃、元の文章と投稿フォームのある双方のページにアクセスしており、しかもcookieにHelterのHNが残っていることから、ネズミヤのPCが使われた可能性がかなり高くなる。

 ラジオではニュースが終わり、交通情報の時間だった。道路の渋滞や交通規制などを告げた後、アナウンサーが淡々と原稿を読み上げる。

東武伊勢崎線は午後9時40分頃、北千住駅において人身事故のため、下り線が不通になっておりましたが、先程、復旧しました。

 浅草駅の近くでトリルと別れたのは9時を少し回った頃だったから、9時40分だと、トリルもちょうど北千住に着いた頃だろう。もしかしたら彼女の乗っていた電車に事故があったのかもしれない。そういえばトリルも酔って少しふらついていた。
 でも、とルネは思った。何事につけ心配を巡らすのは不安神経症の患者に任せておけばいい。それに、電車の人身事故というのは、ほとんどが飛び込み自殺なのだ。今夜のトリルは、たぶん、リストカットもやらないような気がする。


 翌朝、メールチェックの後でニュースサイトを見ると、こんな記事があった。

北千住駅で人身事故。突き落とし殺人か?

昨夜9時40分頃、東京足立区の東武伊勢崎線北千住駅ホームで男性が線路に転落。入って来た北越谷行電車に轢かれ即死した。男がこの男性を突き落として逃げるのを見たという乗客が複数いたため、北千住署で当時の詳しい状況を調べている。被害者は40歳くらいで黒のジャンパー、紺色のズボン。髪はオールバックにしていた。突き飛ばしたと見られる男は50〜60歳でカーキ色のような服を着ていたらしい。

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