
HTML殺人事件
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[Cult Buster]
近年の日本におけるカルトの変遷
■瑞穂の会
瑞穂の会の創始者である魚田鎌足は1903年大阪府に生まれた。青年期には文学の道を志し、W大学に進む。書いた小説や詩を、伝手を辿っては作家、評論家、出版社などに見せて回ったが、それほど高い評価も受けず、日の目を見ることはなかった。そうこうするうち、満足に栄養の取れない困窮生活のためか結核を患うに至って大学を中退、文学の道は断念せざるを得なかった。
鎌足は病気療養中、当時、人々の間に浸透著しかった『皆元教』の信者と知り合い、その勧めもあって“かみやどり”という一種の瞑想法を毎日行ったところ、当時は難病であった結核が完治する。そんなことがあったため彼は皆元教の教会に足繁く通うようになった。教理にも精通した彼は、教団の中でしだいに頭角をあらわわしていく。やがて教主大河内龍之進も彼の能力を認め、鎌足を教団機関紙の編集長に任じた。彼にとっては昔取った杵柄の文章能力が、ここで生かされることとなったのである。
(『■皆元教』のページ参照)
鎌足は教団幹部の中でも教主の信頼厚く、本人も周囲も2代目教主に任ぜられることを予想していたようだが、大河内は長女の婿に青年部部長であった後藤多迦彦を指名したのだった。大河内は男子がないので事実上、多迦彦が皆元教の次期教主と認証されたことになる。
折りしも、皆元教の急速な発展を危険視した政府は、教義や大河内の発言などから皆元教を国体変革を図る邪教とし、憲兵隊と陸軍近衛師団は和歌山の本部を急襲、ダイナマイトを使って施設を灰燼に帰し、教主と幹部を拘束した。
この後、当局による信徒への弾圧は激烈を極める。すでに正式な後継の指名を受けていた大河内多迦彦は連日に渡る憲兵隊の拷問のため精神に変調をきたし、その影響は生涯、彼から拭い去られることがなかった。
教団弾圧時には、あらかじめ組織の詳細など多くの機密文書が持ち出されており、このため、権力側は教団の解体や幹部の公判を円滑に進めることができた。このことは、内部でも相当中枢に協力者がいたことを想像させるが、これが誰であったのかは歴史の闇の中に消え去ってしまい、今となっては知る由もない。
鎌足は次期教主の夢が破れたためだろうか、大弾圧時、すでに教団を脱会していたので、当局の追及を受けることもなかったようである。
その後、鎌足は東京の片隅でひっそりと日々を送っていたが、時が経つにつれて、かつての新興宗教系人脈との接触が復活した。また、いつしか彼のもとには、貧窮、病気、家庭の不和などの問題を抱えた人々が相談に訪れるようになって、彼もこれに丁寧に接したので、その数は次第に増していった。
この頃から彼は、内外の宗教、自然科学、社会科学などの本を読み漁り、それらを引用しながら自らの著作を書き始めた。これが『いのちの実在』であり、戦後に至っても書き続けられて全106冊。400字詰めにして3万枚に及ぶ大部となったが、これは教団がその資金の多くを出版に頼っていたため、鎌足としては次々に上梓せざるを得なかったという理由にもよるだろう。
内容的には、引用した文章を自らの論旨に都合よく配置しているだけで、元となるものの基本的な思想性はまったく無視、時には正反対の自論を展開しているというのが多くの識者の指摘するところである。また、宗教家に不可欠とも言える自らの神秘体験が語られているのは、膨大な著作中、たった1箇所のみで、その内容も何かの剽窃かアレンジであるような胡散臭さに満ちている。
鎌足の我田引水を良く表わした例としてはキリスト教の原罪について述べている部分が上げられるだろう。彼は、聖書にある“人間は罪の子”という部分の真の意味を“包みの子”とし、人間は神の愛に包まれているからだと主張するが、これは彼がキリスト教の根本である原罪をまったく理解していないことの証左でしかない。ヘブライ語や古代ギリシア語で書かれている聖書を日本語の語呂合わせで解説するとは、彼の底の浅さが露呈した笑止千万な話である。
キリスト教にしても仏教にしても、鎌足は自説の補強のため、当初は偉大な思想であるかのごとく称えて引用するのだが、結局はその根本のところで否定するのである。例えば仏教に関してならカルマを否定する。善であり光であり愛でしかない神は、そのような人間にとってよからぬものを創造するはずがないのだ。そして病気や死やあらゆる不幸は、すべて人間の迷妄から発する想念によって生じたというのが彼の唱えるところであった。
鎌足のもとに集まる信者の数は次第に増えたので、瑞穂の会として宗教団体の認可を受けた。神道を基本として天皇制を賛美する教団であるから権力側の覚えも目出度く、とりたてて活動に支障が生じることもない。
ただ終戦間近な頃、鎌足は、日本が負けるという想念をもたなければ必ず勝利できるのだと主張して頑強に本土決戦を唱えた。鎌足と瑞穂の会は、この過激な右翼思想ゆえに憲兵隊からマークされていたという話も伝えられている。
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